やさしいとなり

認知症グループホームでの静かで騒がしい日々の記憶と、そのほか誰かにやさしく隣る人たちの物語を描いていきたいです。

君はほんとうの君になってゆく

 

 



 

これは赤ちゃんの写真。生まれたばかりの誰かさん。

赤ちゃんは一日中眠っているか、泣いているか、ミルクを飲んでいるかの繰り返し。

でもずっと見ていても飽きない。

肌はとびきり柔らかくて、なんだかいい匂いがする。

赤ちゃんはそこにいるだけで周りを幸せな気持ちにしてくれる。

 

赤ちゃんは少しずつ、色んなことができるようになる。

寝返りを打てるようになったり、「ママ」とか「ブーブー」とか言えるようになったり、お母さん以外の人を警戒するようになったり、ひとりでトイレに行けるようになったり…

赤ちゃんはいつの間にか子どもと呼ばれるようになって

「学校」に行くようになった。

そこには同じ年の子どもたちが集まって、決まったスケジュールを守り、一緒に勉強する。これまで「ママ」って言えたり猫の絵を書いたりするだけで大喜びされたのに、ここに来てからはみんなと同じような点を取れないと、心配な顔をされるようになった。

君がどんな子どもなのかは、「通知表」のなかの数字で表されるようになった。お父さんお母さんは通知表の数字を見て、目を輝かせて喜んだり、ため息をついたりした。

他にも、君は君自身が誰なのかをあらゆる方法で証明しなければならなかった。

リレーで何番だったか、友達は何人いるか、流行のファッションをどれだけ知っているか、何度校則違反をしたことがあるか、何人の子に告白したことがあるか…。

君たちはひどく忙しい。何だかとても疲れているようだ。

君は朝起きることが辛くて、学校に行きたくないなあと思うようになった

ある日学校をサボって街に出ると、人がたくさんいた。

店にはきらびやかな商品が並んでいる。おしゃれなカフェもたくさんある。

でも、だれも学校を休んでここに来た君のことを見ていない。

大人たちはひどく忙しそうだ。早足に歩いていく。

人がどんどん流れていく。通り過ぎてはどこかへ行ってしまう。

たくさんの物が溢れているのに、こんなにもさみしい。

たくさんの場所があるのに、どこにも居場所がない。



君はあらゆるところで隠れ家を探すようになった。

騒がしくなくて、競争しなくてもよくて、ほんとうの自分になれる場所。

例えば、学校の屋上に続く非常階段とか、誰もいない古い教室とか、

小高い丘とか、ノートの隅っことか。



ある日、君は家族と折り合いがつかなくなって、家を飛び出した。

家出っていうと周りの人は笑うけど、その時は、心の底から絶望していたんだ。

むかったのは昔から行っていた教会だった。

平日だから誰もいないかもしれないし、もしかしたら誰かいるかもしれない。

どちらでもよかった。とにかく教会に向かって歩き出した。

騒がしくなくて、競争しなくてもよくて、ほんとうの自分になれる場所。

いつもは車で行っていた教会までは歩いて何時間もかかった。ときどき休みながら歩き続けた。暑い日で、噴き出る汗と一緒に、家を出る前にあった悲しかったこと、辛かったことを思い出しながら、教会に続く道を歩き続けた。

 

 

それから君は大人になった。

たくさんの人に出会って、たくさんの思い出をもらって

君は大人になった。

でも、周りの人が君が誰かを知るための通知表の数字は給料明細の数字に変わって、

どんな車に乗ってるか、どんな家に住んでいるか競い合って、

忙しさは昔と全然変わらなかった。



大人になっても隠れ家は必要だった。

音楽や本のなか、

スマホのなか、

好きな人の瞳のなか、

アルコールのグラスなか、、

いろんな隠れ家を探したけれど

安心できる場所は見つからなかった。

騒がしくなくて、競争しなくてもよくて、ほんとうの自分になれる場所。



 

 

 

それから君は歳をとって、いろんなことができなくなっていった。

記憶が薄れていって、探し物ばかりするようになった。

昨日のことも思い出せない、明日の予定もわからない。あるのは、今、だけ。

これまで自分が誰なのかを証明するために得てきたもののほとんどは

もう残ってはいなかった。

自分はいったい誰なのだろう。

ガラガラと音を立てて崩れていく。

もう自分の名前も思い出せない。

この世界はそんな君が生きていくのには

あまりにも騒がしくて、あまりにも速くて、

あまりにも複雑だった。

この世界は「君が何を言うか、君が何をするか」で、君を定義づけようとする。

君はたったひとり世界から取り残されたような気がした。

 

声が聞こえた。

君の名を呼ぶ声が聞こえた。

その声は、騒がしさの中では聞こえない。

明け方の湖のような静けさのなかで

深い穴の中の暗闇の中で

聞こえてくる。

世界がはじまる前から

君を呼ぶ声。

 

 

君はもう隠れ家を探す必要はなかった。

騒がしくなくて、競争もなくて、ほんとうの自分になれる場所。

あるって信じたい。

離れているのではなく、近づいているんだと信じたい。

そこへと向かっていく静かな道のなかで、

君はほんとうの君になっていく。